ミメーシスとダイジェーシス

Mimesis and Diegesis

 

「未来会話」のナラトロジー(ナラティブ論)1

Narratilogy of Futurography 1

 

寺田匡宏

Masahiro Terada

 

「未来会話」とはどういう語りなのだろうか。ナラトロジー(物語論)の視点から整理してみることにしたい。

ここでは、「未来会話」と「未来シナリオ」、「フューチャーデザイン」を比較することからそれを行うことにする。

持続可能性研究では、「未来シナリオ」作成が研究の主流の一つである。持続可能な未来を構想するためには、複数の未来シナリオを社会が持つことが必要であるとされる(Bai et al. 2005)。

ナラトロジー的に言うと、「未来シナリオ」とは、語り手(ナレーター)がいて、未来を語るという点で、「小説」タイプのナラティブ(語り)である。仮に「物語空間」という領域を想定すると、小説とは、「物語空間」の中に、まずは、「地の文」の語りというフレームワークがあって、その語りのフレームワーク中で、登場人物の行動や会話が語られるという構造をしている。

この「地の文」のことを、日本語圏の物語論では、「草子地(そうしぢ)」と言う。「お伽草子」などの「草子」である。この、語り手がいて物語を語るというのが、「竹取物語」や「源氏物語」から続く、小説の基本だ。「源氏物語」の冒頭は、「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給けるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり(どの天皇様の御代であったかは定かではありませぬが、宮廷に、女御や更衣がたくさんおりました中に、取り分けて高貴な身分出身ではありませんが、みかどのひとかたならぬ寵愛を受けておられた方がおられました)」という一文から始まるが、それは、作者・紫式部が設定した、あるナレーターの語りである。

作者とナレーターは同じなのであろうか。作者とナレーターの関係については、様々な議論がある。その議論は、作者が物語の内容を統御できるのか否かという「作者の主体性」や「作者の死」などの問題ともかかわりながら、20世紀初頭以来、ロシア、フランス、アメリカ、日本などで展開してきた多くのナラトロジーの学派によって議論されてきた。物語論研究の藤井貞和は、アイヌ語の物語の構造などを援用しながら、草子地の問題に触れて、「真の物語作者は絶対に作中にあらわれない虚であるから、(・・・)無人称としてある。」という(藤井2001:505)。その考えに従うと、ナレーターとは、その虚の上にあらわれた存在であり、ナレーターの語りは、更にそれを包む無人称の語りに包まれていることになる。「未来シナリオ」も、そのような、ナレーターが設定され、そのナレーターの語る語りのフレームワークで進んでゆくタイプのナラティブである。

一方、「未来会話」の場合は、ナラトロジー的に考えると、「演劇」の台本タイプの語りである。演劇の台本の場合には、小説のようなナレーター(語り手)は存在せず、登場人物の会話だけでテキストは進んでゆく(Hühn and Sommer 2012)。もちろん、「ト書き」などはあるが、それらは、極力目立たないようにされており、最小化される。物語空間の中には、小説のような、「地の文」のナレーターの語りのフレームワークは存在せず、登場人物が物語空間にダイレクトに存在する構造である。

演劇は、古代ギリシア以来、重要な「語り」の一種で、アリストテレスの『詩学』をはじめとして、そのナラティブはさまざまに分析されてきた。小説のタイプの語りはダイアジェーシスdiegesis、演劇のタイプの語りはミメーシスmimesisと呼ばれる。

「未来会話」の場合、「地の文」というフレームワークを要せず、登場人物が、ダイレクトに「物語空間」の中に登場できるという点で、登場人物の主体性がより強いものになっている。

その点で、「未来会話」は、会話の作り手である、未来構想への参加者が、より主体的に、その未来構想にかかわることができるツールになるといえる。

なお、「フューチャーデザイン」は、ナラティブの手法としては、対話的要素もあるが、シナリオ的要素もある。したがって、上記の2つのパターンの混合的なものであるといえる。

ちなみに、ミメーシスとは、古代ギリシア語で、模倣という意味である。未来構想に際しては、シミュレーションという技法も重要な一つの要素である。このシミュレーションという語は、ラテン語のsimilis(類似)を語源としているが、未来会話がミメーシスであるとするならば、ミメーシスも、シミュレーションも、両者とも、ある現実とそれを再現した別の領域内での表現物の関係を問題としていることは興味深い問題である。

未来とは、現実世界とは異なった、非現実のもう一つの世界である。そのような世界とは、物質世界に対する精神世界ともとらえられるし、あるいは現実世界に対する可能世界ともとらえられる。現実以外にもう一つの世界が存在するという、二元的な世界の見方は、おそらく、人類がこころや意識を持ち始めた時点から存在しただろう。こころや意識の発生とは言語の発生と関連しているが、それは、まさに、ナラティブ(語り)の発生である。人類は、言語の誕生以来、そのような二つの世界を何とかしてとらえようとしてきた。「未来会話」もその一つの試みである。

引用文献
藤井貞和(2001)『平安物語叙述論』東京大学出版会。
Bai, Xiu Mei, Sander van der Leeuw, Karen O’brien, et al. (2015). “Plausible and desirable futures in the Anthropocene: A new research agenda,” Global Environmental Chang, 39.
Hühn Peter and Roy Sommer (2012). “Narration in Poetry and Drama,” The Living Handbook of Narratology, Website (https://www.lhn.uni-hamburg.de/index.html).